【第2回】演劇をやっているときの高揚感にだまされるな!あなたが頭を冷やして向き合うべき演劇という選択肢とその末路
こんにちは。カズタカです。
第1回のブログでは、「役者」という選択肢を定量的に評価しました。
やや乱暴な方法であることは認めます。
でも改めて自分にとって「役者」ってどんな選択肢なのか?
これを冷静に見つめ直す機会になったのではないでしょうか。
さて、僕は評価の結果、「役者」が最下位になってしまいました。
「でも演劇は好き!あきらめる気になんてなれない!」
この第2回を読んでいるあなたもきっと同じですよね。
そんなあなたに衝撃の事実をお伝えします。
この事実を知らなければ、あなたは一生さまよい続けることになるでしょう。
ありもしないゴールを求めて。
これから順を追って説明しますね。
まず、一つ質問です。
あなたにとって、演劇の魅力って何ですか?
端的に考えてください。
僕が答えるとしたら…
一つは「変身できる」ことです。
衣装をまとい、作りこまれた舞台装置の中で他の登場人物と言葉を交わす。
こうして虚構の世界の一人物になりきること。
もう一つは「注目を集められる」こと。
舞台の上に立てば、そこにいる観客は自分を見てくれる。
「変身したこんな自分を見てほしい!」これこそ役者の根源的な欲求ではないでしょうか。
それでは二つ目の質問です。
あなたは演劇をしているがためにどんな機会を失っていますか?
僕が答えるとしたら…
それは時間とお金です。
普段の稽古の場所代、当日の会場代、その他備品代がかかるのはもちろん。
でもそれだけではありません。
本格的な演劇をやろうとすればするほど、時間をとられます。
時間をとられるということは、正規の仕事に就けないので、お金が得られません。
収入が減るのに、支出は増える。行きつく先は貧困です。
さらに。役者として高いレベルを目指すなら、やはり東京に行かなくてはいけません。
東京の家賃っていくらでしょう。
調べてみると、23区内だと、ワンルームでも7~8万円。
1年で約90万円。
俳優養成所に通おうと思えばその学費も必要。
当時僕が応募した所の学費はなんと147万円(年間)!
もちろん行けません。そんなお金、捻出できるわけがない。
時間とお金がとられるということでもう一つの損失が。
家族の団欒や友達との交際の機会が奪われます。
結婚、子育ての機会さえ奪われるでしょう。
普段の生活における人間としての経験が演技の元になるはずなのに。
皮肉なことに演劇それ自体がその機会を奪うのです。
それでは三つ目の質問です。
その時間的・経済的犠牲を払えば、あなたの欲求は満たされるのか?
答えはNOです!
稽古をしても、1つの公演が終われば、全てリセット。また新たな役を探さなければなりません。言わば公演ごとに就職活動をするようなもの。
役を得るのに必要なのは、演技力でも、見た目でもなく、人脈です。
演技力のある人は、はいて捨てるほどいます。
イケメンも美女も、はいて捨てるほどいます。
映画のワークショップに参加したとき、真に迫った演技をする人を何人も見ました。
ドキッとするほどに。
もちろんイケメンも美女も参加していました。
あの人たちは今どうしているのか。
見覚えのある顔を一人だけドラマの端役で見かけたことがあります。
誰もが知っているような俳優に上り詰めた人は一人として知りません。
なぜそうなってしまうのか。
もしあなたが選ぶ側なら…
人脈豊富で有名な人と、どこの馬の骨か知れない人、どちらを選びたいか。
当然、前者でしょう。
人となりが分かっているし、集客力もありそうですしね。
だから少数の役者だけが繰り返し起用されるのです。
そして、もし運よく人脈を駆使して、役をゲットしたとしても…
演劇では演出という役職が全ての決定権を持っています。
演出を頂点に、役者、照明、大道具、衣装…
多くの人間の思惑が複雑に絡まり合って作られていきます。
それが楽しいときも当然あります。
でも、裏を返せば、一役者として、自分の意見はまず通りません。役者は演出の奴隷と言っても過言ではありません。
さらに、大きな仕事だとスポンサーや芸能事務所などの意向も入ってくるでしょう。
だから妥協の連続なのです。
さて、以上でもうお分かりのはずです。
多大な犠牲を払って演劇自体を究めたとしても、その先には何もないのです。
人脈という得体の知れないものを掘り当てなければ。
そして仮に掘り当てたとしても、決定権は一切なし。
もはや演劇をあきらめるという表現は適切ではありませんね。
理想を具現化する手段として演劇はふさわしくない、というのが正しいのです。
では、どうすればあの欲望を達成できるのか?
「変身したこんな自分を見てほしい!」という欲望を。
できれば、時間的・経済的な犠牲を払わずに。
次回のブログでその最短の方法をご提案します。